| 多布施川藻様【2023.03.05上梓 平成八年(2026)年度版 <佐賀市多布施住人 木浦>】 光陰矢の如し、特に歳を負うにつれその速さは鉄砲弾のような! とでも言えそうです。ところで、たまたま平成六年に訪問を受けた誌友から受けとった私の「高校卒業時のアルバム」が更なる幸運を齎してくれました。 昨年十月、鹿児島、熊本、佐賀に住む三人の同窓会を開く機会を得(六十年振り)、そのアルバムが酒の肴に貢献してくれました。三人とも卒業時には入手しておらず、初めて見るクラス集合写真に見入っていました。 今年は、人生の区切りの一つ「卒寿」を迎えます。随想の話題が百話を超え、段々話の種が尽きてきていますが、命続く限り、周りを漁ろうと思います。月々一歩、庭々散歩 多布施川藻様月誌【令和八年版 2026.01.10更新】 ・おりおりのうた日誌(再掲版/第九稿 2025.10.29掲載) |
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今朝の冬髪分けながらヘルメット(2026.01) 私の住む佐賀市多布施町界隈は自転車が多い。近くに中学校、高校、大学があり、朝の通学時間帯は生徒や学生が縦横に走り回っている。自転車通勤の社会人も見られる。最近の自転車、外見は昔と殆ど変わらないが色はカラフル、自動点灯のライト付きで、朝から光っている時もある。タイヤ等の性能は各段に向上をしている。パンクも聞かない。自転車修理屋さんは上ったりのようだ。 私も、中学・高校時代は自転車通学だった。しょっちゅうパンクしていた。材質も材質だったが、道路は砕石ジャリ道、現在のアスファルトとは雲泥の差であった。昭和四三年(1968)社会人となったが、当時宮崎の片田舎では車も少なく、信号もちらほら、退社時は一杯飲み屋やおでん屋に寄り道しての帰宅。当然、自転車での飲み屋通いは普通。帰途は当然飲酒運転。車の免許は持っていなかったし、自責の念は無かった気がする。 その後、約四十年に渡る会社通勤は徒歩時代、自転車時代、車時代を経て、平成十二年(2012)佐賀に転居後の大学編入時は、片道約6㎞の自転車通学であった。流石の会社員時代に比べ、受講後の飲み屋通いは皆無で、真っ直ぐ自宅の道に向かう生活となった。 令和六年(2024)十一月に施行された改正道交法で、自転車の「酒気帯び運転(呼気1㍑あたり0.15㍉・㌘以上のアルコール)」には「3年以下の拘禁刑または50万円以下の罰金」が科せられるようになった。令和七年(2025)には自転車の「飲酒運転」で運転免許の停止処分を受ける人も数百人にのぼるそうだ。今や国内で自転車の走り回る台数が五千万台を超え、交通事故に占め自転車事故の増加、自転車の飲酒運転事故による重傷や死亡のリスクの増加が危惧される事態での改正である。運転免許のいらない自転車(道交法上軽車両)を「歩行の延長」との思い込みに対する警鐘(摘発)でもあろう。 「酒」とは無縁であろうが、生徒・学生にとっては、自転車は通学、部活に最適な移動手段。ヘルメットにマフラーを翻した通学者の姿は当分変わらない光景であろう。問題の大きさに比べて、自転車乗りのマナーを始め、何故か学校の正式な教科で、法律(道交法含)の授業が無い! 受験に関係無い項目なのだからかなあ!。
糶市場昼に静かなばいまわし(2025.12) | 最近は、紙も上質、字も大きな「新歳時記 平井照敏編 単行本サイズ」を市立図書館からと借りて来て活用している。何となく“冬編”を捲っていたところ「根木打(ねっきうち)と言う季語に目が留まった。解説文を読むと、子供の頃(多分小学低学年)経験したことのある遊び。日向の方言では、違う名前であったが、どうしても思い出せない。そうこうしている内に、幼かりし頃の“遊びが”次々と脳裏に浮かんできた。 まずビー玉(日向弁ではラムネン玉)。地面に一㎝程度の穴を掘り、この穴を中心に約一m位の距離に前後、左右に四つの穴を掘る。二,三人で順番を決め、定位置から玉を指で弾き穴に入れて行く遊び。直接穴に入ったり相手の玉を弾き飛ばした場合は連続して自分の玉を弾くことが出来る。早く、全部の穴入れを通過した者が“あがり”となる。 次にめんこ(面子、日向弁でぱちんこ)。大方は、トランプ大の長方形や円形の厚紙(表面は当時の漫画の主人公/イガグリくんや自来也等の絵を馬糞紙に張り付けた物。相手のメンコを地面に置き、それに自分のメンコを振り下ろして先のメンコを裏返す(風圧で)遊び。見事裏返った場合は、それを自分のものに出来る。メンコに中々裏返し出来ない工夫に対して、振り下ろす(裏返す)工夫を競ったものである。 こま回し(日向弁ではごま)。本体は大体市販品。芯は釘や窓レールの廃棄品を夫々独自に加工。遊びは、相手のごまにぶっつけあいしながら相手のごまを倒す競争、先の尖った芯を付け、相手のごまを傷つけたり、割ったりする遊び。紐は漁具用延縄ロープ。先端がほぐれない工夫を施して筆先状にし、多端は穴あきの五円玉を鍔の代わりに取り付ける。 田舎では公園なんて無い。遊び場は土塊の凸凹道路(車も滅多に来ない、人や自転者が通る時は遊びを中断)、広場と言えば、村雄一のコンクリ―ト張りで糶の終わった魚市場。家の中でゴロゴロしていることはなかった。雨の時は、神社の外廊下でパチンコ、床面が板で平らなため実力発揮の場となる。神官に見つかれば逃げるのみ。中学生以降は、ここが「盆踊り」の稽古場になったものである。平成や令和生れの子供達には想像がつかない遊び。これが、今から七、八十年前の風の子の遊び。この文章だけで想像がつくかなあ。
六十年振りの同窓会柿の種(2025.11) | 二月中旬、「竹馬の友」T君から葉書が舞い込んだ。彼は現在熊本に定住していて、この数十年 年賀状で近況を知らせるだけの音信であったが突然の葉書(2/12着)。内容は、鹿児島県薩摩川内市に住んでいる中学・高校時代の同級生M君が、私に会ってみたい。更に今後連絡し合いたいので、電話番号を教えてほしいとのこと。昔の年賀状には電話番号などを記載していたが、世知辛い時代になり、令和に入ってからは削除していた。 小学校時代からの特に親しい友は、漁師の倅である私KとT君、H君(親の職業は?)、宮大工の息子A君の四人組、中学に入りM君(多分農家出身であろう)が加わり五人組となっていつも屯していた。不思議なことに小学時代に四人組と同一クラスになったことは無いと思う。私とT君が同じ漁師の長男という以外は、殆ど共通点は無く、何が結ぶ付きの要因になったのかは不思議である。しかし、今回の話の延長で、先に延岡市に住む後輩から頂いた貴重な「卒業写真集」を紐解くと、この五人組、同一クラスの写真(高校三年時)に納まっている。こんな時期に、例の写真集が手元に舞い込んだ奇跡である。 T君を通して私との連絡調整の結果、当初四月に熊本で三人同窓会を開催することに決めて進めていた。ところが私達、歳も歳である。何が起こるか分からない。T君からの電話。胃に異常が見つかり、治療・療養の診断が下ってしまった。例の会、当分延長せざるを得ないとの事。健康第一、即O.Kで、叉の機会を待つことにした。
飛魚の眼が剥いておる甑島(2025.10) | 線状降水帯各地で冠水、九州新幹線運転見合わせ!との報道が未明、早朝から流れる。それらの兆しは早期に予報されるようになったが、“よそ事”として眺めるだけか、“まさの坂”には無関心なのか、我関せずなのか、結果的にはいつもの惨事が繰り返される。高度に進歩した日本文化圏に於いて、死亡事故、行方不明者等の報道は後を絶たない。 思えば、本当に怖い体験(実は錯覚!)をしたことがある。もう五十年前になるか!、出張で甑島(鹿児島県薩摩川内市に属する離島)に宿泊した時の事。夕刻から降り始めた豪雨(今でいう、一時間に百㎜以上豪雨だったのか?)が夜通し音を立てて降りしきる。島全体が沈没してしまうのではないかという錯覚、恐怖、一晩中眠れなかった記憶、何時しか気が付くと青々とした海と空の狭間で目を擦って、きょとんしていたことを思い出す。 当時、多分、阿久根港からの連絡船に乗り込んで上甑島を目指した。当日は、天気晴朗で、漁師の生まれであるのに、海原を船の先導、後摘めを飛魚の群れが銀色を浴びて飛び交う光景にびっくり。多分、海は穏やかなうねりの様子だったので、台風の影響はみられない天候状態であったろう。その夕方の出来事である。 「線状降水帯」という言葉は、次々と発生する積乱雲が列をなし、線状に伸びた地域に大雨を降らせる現象のようで、先の体験が眞にこれの先駆けではなかったかと思う。当時は、「集中豪雨」という言葉で片付けられていたのだろう。気象メカニズムや天候予報の技術も未熟な時代の話である。 雨もすっかり止んだ朝、旅館から目的地(各種学校生の生徒募集のための、中学校訪問)に行くのにタクシーがなく、護岸工事の業者の乗用車に便乗させてもらった事。合間のちょっとした観光では「なまこ池(海浜に出来た池で、満潮と干潮で水位が逆転する不思議な池とか?)、鹿の子百合の群生地?を歩いた微かな記憶が蘇る。 もう一度足を運んでみたいなあ!しかし、ここも橋が架かり、都会並みのホテルが建ち、観光開発が進んでいて、当時の面影は辿れないだろう。変わらないのは、当時の面影を残しているものは、飛魚の飛翔だけだろうなあ! (注)写真は、水俣市沖の「恋路島」、後日約十年ほど水俣に住んでいた。
遥かなる過去を背負った白い雲(2025.09) | 八月と言えば私の誕生月である。その月の五日生れ。当時戦後のどさくさの時期、届け出日が本当の誕生日なのかどうかは、両親がいない今知る由もなく、昔、両親に質したこともない。戸籍上の数値を信ずるしかない。八月はこの後、六日の「広島原爆の日(8時15分)」、九日の「長崎原爆の日(11時02分?)」、十五日の「終戦記念日」と第二次世界大戦の後遺症が続く。 去る八月二六日、戸籍に記載する振り仮名の通知書がきた。出生届時の戸籍謄本には勿論、名前には振り仮名は付いていない。今回の通知書にはカタカナ名で「ヨシノリ」と書いてある。間違いないかの確認書である。何故、カタカナなのであろうか。私は仮名書きのときは「きうらよしのり」を使ってきた。“ぜんとく”とも呼べるので、家内の親族からは「ぜんさん」と呼ばれている。「ゼンサン」では様にならない。 成長して、昭和四六年(1971)三月に結婚、昭和四七年四月長男誕生、昭和四九年四月長女誕生と一男一女を設けた。平成十五年(2003)三月、長男の結婚式で東京に行った時、序に東京見物の一つに「東京タワー」に登った。そこで手に入れた、私の誕生日の来塔記念「朝日新聞」の一ページを今も持っている。 当時の世相は、五月二二日幣原(しではら?)内閣が辞職し、同日第一次吉田内閣が発足直後であった。昭和二一年八月五日の朝日新聞、第一面の記事は、その吉田内閣についての世論調査の結果。吉田内閣の支持率40%。政党支持率/進歩党10%、自由党(吉田氏の所属党)24%、社会党41%、共産党P%、共同民主党Q%、諸派R%、どの政党も指示せず15%とある。自由党と進歩党との連立内閣である。 平成七年八月二五日の読売新聞内閣支持率39%、自民党支持率23%、党勢支持率からして、八十年経った昨今と同様四苦八苦していた感が伺える。進歩していないなあ! それでも当時は、政治家も国民も、戦後復興に躍起になっていただろう。昨今の政治は何をしているのだろうか。 国とは国家とは何だろう。更に、政治とは何だろう。あれから八十年たとうとしている。何人の首相が動かしてきたのだろうか! 変わっていないなあ! 私、証言者の1人!
炎帝や寝ても醒めても傍らに(2025.08) | 今年も叉熱い(暑い/ではない)夏がやってきた。報道では、長期天気予報や、その対策の記事が賑わう。多分今年も“今日の猛暑日地点全国○○箇所、猛暑日▽▽日継続記録更新、□□市最高気温更新、熱中症で患者搬送**人との報道が飛び交うであろう。確かに、熱中症症状で死亡者数が毎年二百人以上と言うのは大変な数字である。 学校行事の運動会では、時期(十月から十一月へ)、時間(終日開催から午前中だけの時間短縮、叉は午後五、六時頃やナイター時間)、場所(グランドから体育館内へ)の見直しがなされているようだ。これは、競技中熱中症で倒れる子供が増えている結果だとしている。運動会や体育祭で子供が倒れて、約200件(2019~2023年度)もの日本スポーツセンターの「災害共済給付制度」を適用したとの話も聞く。 終戦直後の、栄養失調然として小学校に通った私達、体操の授業中に水を飲むなんて考えられなかった。後で直接水道の蛇口に口を付けて飲む光景、下着まがいの体操服一枚、無帽(運動会では鉢巻き姿)、しかし、熱射病(今の熱中症か!)で保健室に休む生徒はまれ。今の子供、弱いなあ!先生からして、完全武装の姿!生徒指導できるのかねえ! 私達の時代、小さい頃より、日頃の生活で体が暑さ、寒さ、きつさに慣れていたのだろう。運動会前の一ケ月程度、無帽で裸足、準備運動のラジオ体操をじっくりこなし、隊列行進、かけっこや団技の練習で体をならし(順化期間)、本番では丸一日天日に晒されても、次に日一日(月曜日/振替休日)休めば、体力回復の時代であった。 日頃はクーラー入りの体育館で涼しく遊んでいて、体育祭当日だけ突然てんころ干しにさらされれば、体の異常を来すのは当たり前。何事も「順化」は必要だ。とは言っても、三十五度以上の日が続くことは無かったように思う。地球温暖化のせいなのだろう。 昭和二十、三十年代、道路は土塊で、至る所に木々が生い茂っていて、校庭の鉄棒の際には木々が繁り、栴檀の大木から見下ろされながらの体操であった。暑いことには変わりはなかったが、木々の葉っぱを横切って、土の表面をなぞってきた空気には、柔らかいものがあった。今の空気の感触/コンクリートジャングル/は熱いばかり。 注/てんころぼしー帽子もかぶらず日光に頭をさらす事/宮崎の方言 |