| 多布施川藻様【2023.03.05上梓 平成八年(2026)年度版 <佐賀市多布施住人 木浦>】 光陰矢の如し、特に歳を負うにつれその速さは鉄砲弾のような! とでも言えそうです。ところで、たまたま平成六年に訪問を受けた誌友から受けとった私の「高校卒業時のアルバム」が更なる幸運を齎してくれました。 昨年十月、鹿児島、熊本、佐賀に住む三人の同窓会を開く機会を得(六十年振り)、そのアルバムが酒の肴に貢献してくれました。三人とも卒業時には入手しておらず、初めて見るクラス集合写真に見入っていました。 今年は、人生の区切りの一つ「卒寿」を迎えます。随想の話題が百話を超え、段々話の種が尽きてきていますが、命続く限り、周りを漁ろうと思います。月々一歩、庭々散歩 多布施川藻様月誌【令和八年版 2026.03.10更新】 ・おりおりのうた日誌(再掲版/第九稿 2025.10.29掲載) |
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パソコンと茶菓子の台や春炬燵(2026.03> 今年の一月中旬、新聞の記事の一コマ、ある人のインタビュー記事で「α世代とか、α世代一つ上のZ世代を含めて“ザルファ世代”と呼んでいる」とある。田舎住まいの(佐賀が田舎かどうかはさておいて!)傘寿を迎えようとしている高貴高麗者(?)にとっては、聞きなれない言葉である。 変な勘ぐりをして、Z世代があれば、X世代やY世代もあるはずだ。終戦直後に生まれた私は、何世代なのか。「団塊の世代」とは聞いたことがある語だが、これ等の遡及線上の言葉なのであろうか。暇な人間の座興にインターネットを調べてみた。 X世代とは、アメリカ合衆国を中心に、1965年から1981年(昭和四十~五六年)に生まれた人々を指すそうである。ある写真家の著書によって広まったそうだ。私が付き合ってきた人の多くが、この年代の人種であるが、どんな特徴があるのかは、よくわからない。 それに対してY世代とは、1980年~1995年頃(昭和五五~平成七年)に生まれた世代で、インターネット環境の普及とともに育った世代。Z世代は、その延長線上で1990年~2010年代(平成二~二二年)当初に生まれた世代で、インターネットやスマーフォンが普及し、デジタル環境に非常に慣れて、情報を迅速に収集し、迅速に発信出来る人種。 α世代とは、2010年以降に生まれた人を指し、生まれた時からスマートフォンやタブレットなどのデジタル機器に囲まれて育った人々で、これ等の機器が無ければ生活できない環境に置かれた人々であるらしい。 因みに、私達の世代昭和二一年(1946/終戦の翌年)~昭和三九年(1964/第一回東京オリンピックの年)頃にかけて生まれた人々は「ベビーブーマー(baby boomers)世代と呼ばれるそうである。第二次世界大戦終結後、復員兵の帰還に伴い出生率が急激に上昇したことから、全世界で目を見張る人口動態の変化が社会に大きな変化をもたらした世代。今回の独自調査(?)での大発見である。 後々、勤労者社会現象で話題となる「2007年問題の当事者」になる世代、日本では「団塊の世代」と称される人々。実は、私が「コンピュータ」に触れたのは、以外と古く昭和四二年(1967)、今や、孫達が「α人」なんて想像も出来なかった。
不揃いの (2026.02) | 机の整理と言おうか断捨離の試みと言おうか、新入社員時代に購入し今も現役・木製机の引き出しを開けてみると、そこには懐かしい「筆箱(木製)」が一角に納まっていた。現在は、百円均一で手に入れた「四~五区画に区切られた筆立て」が机上を大きく占めている。そこには、鉛筆、消しゴム、ボールペン、サインペン、カッターナイフ、鋏等が投げ入れたているので、引きだしをめったに荒捜しをすることも無い。 この引き出しには、昔々学校に持ち運びしていた筆入れも収まっている。布製で表面の至る所にはインクの色も染み付き大変汚れているが、こんな類、洗濯などするものではなく、むしろ歴史を留めている感がしている。65歳からの大学通学まで活躍してくれた。その表面に書かれていたメーカー物品名を今もカード等の暗証番号にしている。 私達が「書き」を覚えてから学生時代までは、殆ど鉛筆が主流であり、シャープペンシルやボールペンが珍しい時代。手紙等を綴る場合の清書といえばペン軸をインク壷に浸し、手を汚しながらの手書きであった。昨今の安物輸入品や無印・百円均一品の無い時代、万年筆と言えばメーカー品で高価であった。 現在俳句草稿中心の「メモ書き」は、紙はカレンダーの裏紙の適当な大きさに切りそろえ、鉛筆は孫たちの使い残した半端物を、使い古した蛍光ペンの軸に差し込んで使っている。「もったいない」と言うよりも、手に触れる太さ、感覚が鉛筆そのものの太さに比べてしっくり来る。これを原稿用紙風の紙にインク式ボールペンで清書する。 俳句投稿用の葉書は、カートリッジの差込口が壊れた安物の万年筆をインク壷に浸しながらの提出である。多分、子供か孫が使っていた安物のお古で、インクカートリッジを嵌め込むガイドが壊れている。従って、ブルーブラックのインク壷に付け浸しながらの筆致である。適当な筆圧と筆厚が気に入り、葉書の大きさに対して、十七文字分の字の太さがバランスしているような気がする。はがきや手紙には欠かせない。 追伸で記載すると、私の筆立てには、多分七十年前から居座っていると思われる「肥後守」が依然として光輝いており、カッターナイフより先に眼が行く。
今朝の冬髪分けながらヘルメット(2026.01) | 私の住む佐賀市多布施町界隈は自転車が多い。近くに中学校、高校、大学があり、朝の通学時間帯は生徒や学生が縦横に走り回っている。自転車通勤の社会人も見られる。最近の自転車、外見は昔と殆ど変わらないが色はカラフル、自動点灯のライト付きで、朝から光っている時もある。タイヤ等の性能は各段に向上をしている。パンクも聞かない。自転車修理屋さんは上ったりのようだ。 私も、中学・高校時代は自転車通学だった。しょっちゅうパンクしていた。材質も材質だったが、道路は砕石ジャリ道、現在のアスファルトとは雲泥の差であった。昭和四三年(1968)社会人となったが、当時宮崎の片田舎では車も少なく、信号もちらほら、退社時は一杯飲み屋やおでん屋に寄り道しての帰宅。当然、自転車での飲み屋通いは普通。帰途は当然飲酒運転。車の免許は持っていなかったし、自責の念は無かった気がする。 その後、約四十年に渡る会社通勤は徒歩時代、自転車時代、車時代を経て、平成十二年(2012)佐賀に転居後の大学編入時は、片道約6㎞の自転車通学であった。流石の会社員時代に比べ、受講後の飲み屋通いは皆無で、真っ直ぐ自宅の道に向かう生活となった。 令和六年(2024)十一月に施行された改正道交法で、自転車の「酒気帯び運転(呼気1㍑あたり0.15㍉・㌘以上のアルコール)」には「3年以下の拘禁刑または50万円以下の罰金」が科せられるようになった。令和七年(2025)には自転車の「飲酒運転」で運転免許の停止処分を受ける人も数百人にのぼるそうだ。今や国内で自転車の走り回る台数が五千万台を超え、交通事故に占め自転車事故の増加、自転車の飲酒運転事故による重傷や死亡のリスクの増加が危惧される事態での改正である。運転免許のいらない自転車(道交法上軽車両)を「歩行の延長」との思い込みに対する警鐘(摘発)でもあろう。 「酒」とは無縁であろうが、生徒・学生にとっては、自転車は通学、部活に最適な移動手段。ヘルメットにマフラーを翻した通学者の姿は当分変わらない光景であろう。問題の大きさに比べて、自転車乗りのマナーを始め、何故か学校の正式な教科で、法律(道交法含)の授業が無い! 受験に関係無い項目なのだからかなあ!。
糶市場昼に静かなばいまわし(2025.12) | 最近は、紙も上質、字も大きな「新歳時記 平井照敏編 単行本サイズ」を市立図書館からと借りて来て活用している。何となく“冬編”を捲っていたところ「根木打(ねっきうち)と言う季語に目が留まった。解説文を読むと、子供の頃(多分小学低学年)経験したことのある遊び。日向の方言では、違う名前であったが、どうしても思い出せない。そうこうしている内に、幼かりし頃の“遊びが”次々と脳裏に浮かんできた。 まずビー玉(日向弁ではラムネン玉)。地面に一㎝程度の穴を掘り、この穴を中心に約一m位の距離に前後、左右に四つの穴を掘る。二,三人で順番を決め、定位置から玉を指で弾き穴に入れて行く遊び。直接穴に入ったり相手の玉を弾き飛ばした場合は連続して自分の玉を弾くことが出来る。早く、全部の穴入れを通過した者が“あがり”となる。 次にめんこ(面子、日向弁でぱちんこ)。大方は、トランプ大の長方形や円形の厚紙(表面は当時の漫画の主人公/イガグリくんや自来也等の絵を馬糞紙に張り付けた物。相手のメンコを地面に置き、それに自分のメンコを振り下ろして先のメンコを裏返す(風圧で)遊び。見事裏返った場合は、それを自分のものに出来る。メンコに中々裏返し出来ない工夫に対して、振り下ろす(裏返す)工夫を競ったものである。 こま回し(日向弁ではごま)。本体は大体市販品。芯は釘や窓レールの廃棄品を夫々独自に加工。遊びは、相手のごまにぶっつけあいしながら相手のごまを倒す競争、先の尖った芯を付け、相手のごまを傷つけたり、割ったりする遊び。紐は漁具用延縄ロープ。先端がほぐれない工夫を施して筆先状にし、多端は穴あきの五円玉を鍔の代わりに取り付ける。 田舎では公園なんて無い。遊び場は土塊の凸凹道路(車も滅多に来ない、人や自転者が通る時は遊びを中断)、広場と言えば、村雄一のコンクリ―ト張りで糶の終わった魚市場。家の中でゴロゴロしていることはなかった。雨の時は、神社の外廊下でパチンコ、床面が板で平らなため実力発揮の場となる。神官に見つかれば逃げるのみ。中学生以降は、ここが「盆踊り」の稽古場になったものである。平成や令和生れの子供達には想像がつかない遊び。これが、今から七、八十年前の風の子の遊び。この文章だけで想像がつくかなあ。
六十年振りの同窓会柿の種(2025.11) | 二月中旬、「竹馬の友」T君から葉書が舞い込んだ。彼は現在熊本に定住していて、この数十年 年賀状で近況を知らせるだけの音信であったが突然の葉書(2/12着)。内容は、鹿児島県薩摩川内市に住んでいる中学・高校時代の同級生M君が、私に会ってみたい。更に今後連絡し合いたいので、電話番号を教えてほしいとのこと。昔の年賀状には電話番号などを記載していたが、世知辛い時代になり、令和に入ってからは削除していた。 小学校時代からの特に親しい友は、漁師の倅である私KとT君、H君(親の職業は?)、宮大工の息子A君の四人組、中学に入りM君(多分農家出身であろう)が加わり五人組となっていつも屯していた。不思議なことに小学時代に四人組と同一クラスになったことは無いと思う。私とT君が同じ漁師の長男という以外は、殆ど共通点は無く、何が結ぶ付きの要因になったのかは不思議である。しかし、今回の話の延長で、先に延岡市に住む後輩から頂いた貴重な「卒業写真集」を紐解くと、この五人組、同一クラスの写真(高校三年時)に納まっている。こんな時期に、例の写真集が手元に舞い込んだ奇跡である。 T君を通して私との連絡調整の結果、当初四月に熊本で三人同窓会を開催することに決めて進めていた。ところが私達、歳も歳である。何が起こるか分からない。T君からの電話。胃に異常が見つかり、治療・療養の診断が下ってしまった。例の会、当分延長せざるを得ないとの事。健康第一、即O.Kで、叉の機会を待つことにした。
飛魚の眼が剥いておる甑島(2025.10) | 線状降水帯各地で冠水、九州新幹線運転見合わせ!との報道が未明、早朝から流れる。それらの兆しは早期に予報されるようになったが、“よそ事”として眺めるだけか、“まさの坂”には無関心なのか、我関せずなのか、結果的にはいつもの惨事が繰り返される。高度に進歩した日本文化圏に於いて、死亡事故、行方不明者等の報道は後を絶たない。 思えば、本当に怖い体験(実は錯覚!)をしたことがある。もう五十年前になるか!、出張で甑島(鹿児島県薩摩川内市に属する離島)に宿泊した時の事。夕刻から降り始めた豪雨(今でいう、一時間に百㎜以上豪雨だったのか?)が夜通し音を立てて降りしきる。島全体が沈没してしまうのではないかという錯覚、恐怖、一晩中眠れなかった記憶、何時しか気が付くと青々とした海と空の狭間で目を擦って、きょとんしていたことを思い出す。 当時、多分、阿久根港からの連絡船に乗り込んで上甑島を目指した。当日は、天気晴朗で、漁師の生まれであるのに、海原を船の先導、後摘めを飛魚の群れが銀色を浴びて飛び交う光景にびっくり。多分、海は穏やかなうねりの様子だったので、台風の影響はみられない天候状態であったろう。その夕方の出来事である。 「線状降水帯」という言葉は、次々と発生する積乱雲が列をなし、線状に伸びた地域に大雨を降らせる現象のようで、先の体験が眞にこれの先駆けではなかったかと思う。当時は、「集中豪雨」という言葉で片付けられていたのだろう。気象メカニズムや天候予報の技術も未熟な時代の話である。 雨もすっかり止んだ朝、旅館から目的地(各種学校生の生徒募集のための、中学校訪問)に行くのにタクシーがなく、護岸工事の業者の乗用車に便乗させてもらった事。合間のちょっとした観光では「なまこ池(海浜に出来た池で、満潮と干潮で水位が逆転する不思議な池とか?)、鹿の子百合の群生地?を歩いた微かな記憶が蘇る。 もう一度足を運んでみたいなあ!しかし、ここも橋が架かり、都会並みのホテルが建ち、観光開発が進んでいて、当時の面影は辿れないだろう。変わらないのは、当時の面影を残しているものは、飛魚の飛翔だけだろうなあ! (注)写真は、水俣市沖の「恋路島」、後日約十年ほど水俣に住んでいた。 |