俳句趣味<俳句手帳片手に散策考> page047g.html ※ 七稿/七十路俳句能無し史記を読む(2020.10.10記録 2021.01.10/2025.07.10追記) 私は、二十一歳位から一応ちんたらちんたら俳句・作句に関わっていますが、七十過ぎたこの歳になって も「俳句」とは一体何なのかは今だに解かりません。思いついては句帳を汚し、ふ〜っと本棚に押し込め、 気分が向くまま行き当たりばったりの作句(五七五調)です。従って、真剣に作句している人達には申し分 けない亜流派の部類です。私のまったく一貫性のない一行文章は「俳句」とはおこがましく、「八一九」と か「一行日誌」とか言って一種のごまかしで過ごしてきました。当然のことながら他人の俳句には関心を示 してきませんでした。 たまたまの投句誌(過去に、雑誌「社会人」、俳句誌「雲 母、遠野火、俳 句、椎の実」、新聞「朝日 新聞宮崎版、同佐賀版、読売新聞宮崎版、同佐賀版」等)に投句した経緯経があますが、それらを手にして も、自分の掲載俳句にしか目が向きませんでした。つまり、同誌投句者や著名人の俳句評を読んで勉強をす るというような努力はしてきませんでした。その結果、足掛け55年の作句歴にも関らず「黛まどか」氏等 がおっしゃっている「俳句脳」がそもそも無いのか、その破片があっても磨きようがない諸業が原因なので しょう。御覧の通りです。 叉、「俳句会」や「吟行旅行」と称する自己研鑽、相互研鑽の機会にも出会った事がありません。四、五 回程度の恩師「三輪先生」からの作句に対する指摘、教訓やアドバイスのみを頼りにしてきました。知って いる俳句、俳人といえば、国語の教科書に載っているものが殆どです。例えば、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林 一茶 - - 何れも「古典も古典」ですね。「古池や蛙飛び込む水の音」「菜の花や月は東に日は西に」「雀 の子そこのけそこのけお馬が通る」- - しかし、雑誌や俳句誌に投句するようになると、いやが上にも選者の名前や俳句誌の主宰者の名前にも気 を留めざるをえません。一番最初に投句した俳句誌「雲母」の主宰者は「飯田龍太」氏、その父が飯田蛇笏、 ああ確か国語の教科書で見た名前だとか、しばしば全国版新聞の俳句選者名とか俳句論評者に名を連ねてい た「高浜虚子」、「水原秋葉子」、この人たちもどこかで聞いたことがあるとか、 そうそう「正岡子規」の名前は中学か高校時代の記憶の隅にはありましたが、昭和五三(1988)年頃、私 が四十過ぎた時に読んだ日露戦争題材にした司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で、本の主人公「秋山真之」 の同級生だということを通じて印象を深めた具合です。登場人物の東郷平八郎、乃木希典、児玉源太郎等は、 祖父や祖母から重々耳の痛くなるほど聞かされて(曾祖父が日露戦争に参戦した?)いましたが、秋山真之 の名前は、この時初めて知りました。 「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」の俳句は知っていましたが、これが正岡子規の作であることは、何かの 本で正岡子規が柿好きであったとの記事で馴染みになりました。平成六年(1994)五月、会社勤務二五周年記 念の休暇で、当時のJRグリーン車乗り放題フルムーン夫婦グリーンパスを利用した旅行経路の中で、奈良 見物をした折、法隆寺に立ち寄り、売店でこの句の印刷物(約、縦1300×幅400mm確か千円程度)を購入し、 自分でガラス表紙の額縁を作った記憶が、この額縁いまも床の間の隅に飾ってあります。 さらに河東碧梧桐(この名も教科書的知見)の紹介で「高浜虚子」が俳句を知ることになり、その後、正 岡子規の後押しで俳壇の重鎮に進むこと。当世活躍されている「稲畑汀子」氏が高浜虚子の孫であることは 最近知りました。更に、「俳句誌」ではありませんが、「朝日新聞」に連載されたコラム「折々のうた」著 者である「大岡信」氏の「瑞穂の国のうた(世界出版社)」を読み返すうちに、俳句系譜が何となくわかり かけています。 しかし、作風の系統でしょうか、流儀なのでしょうか「ホトトギス派」とか「アララギ派」とかは、今で もさっぱりわかりません。私の先生「俳号;三浦秋葉」は一時「野見山飛鳥」氏主宰の「俳誌(菜殻火)」 に投句の傍ら、師事したそうですが、野見山飛鳥氏も「高浜虚子」に師事し「ホトトギス派」とうい系図ら しい。少しずつではありますが、俳句関連の本を読むにつれて、俳句についての論評とか、俳句の神髄とか 述べられた本を目にするようになりましたが、理解するにはほど遠く難解なものが殆どです。 誰が、どんな派閥で、どんな系譜で、どんな作風か等については、改めて殆ど気に留めないようにしてい ます。今後も気にせず師系「三浦秋葉」、「木浦善徳」風「一行日誌又は八一九」で、五・七・五を重ねよ うと思っています。ただ、最近(令和元年/2019末)投句を始めた「俳句誌(椎の実)」の代表者・主宰者 「布施伊夜子」氏の御指導は、有難く感じています。 それにしても、俳句の不思議の一つに、俳句には止めどなく漢字が多く使われていることです。昔、三輪 先生からの添削手紙に「表現上語句の硬いものが多い。なるベく俳句では漢語を使わぬ事。できれば、ひら がなを多く使う(ということは、動詞的な語がよいということ)です。そうすれば、余情が出てきます」と ありましたが、私が現在参画している俳句誌表紙を開けただけでも読めない漢字がずらり、案外漢字は知っ ていたつもりでしたが、電子辞書で調べ、ひらがなをつけながら一通り読み解きの後、これは参考になる句 だとチェックする始末です。 ※ 私流の解釈では、俳句は日本語独特の表現をする文節短文なのだと思います。日本語、大和ことばその ものが、五・七・五調のリズムに叶っており、島国日本という独特の事情が醸し出す四季と相まって、そ れを眺め、観察し、推察し、その中に、人の心の喜び、哀しみ、人と自然との・人と人との愛、絡み、憎 しみ、悲哀を表現する文言だと思います。従って、四季(自然)と花鳥諷詠(生き物)との調和を和語( 大和言葉)で表すことにその特徴がある- - - 和語の反対語「漢語」には、その温かさを見出すことはで きないーーー確かに、漢語は固いというか堅苦しい感じがします- - - 和語―すなわち大和ことばには、 かな文字と漢字がまじる- - - 。それで、先生は「漢字」ではなく「漢語」はなるべく使わぬこと、とい ったのでしょう。 私事ですが、私自身は高校時代から「漢文」は好きでした。 ※ 漢字、漢文、と言えば、最近読んでいる史記(北方謙三著 第7巻)の中の司馬遷と使用人(張起)と 孫信(司馬遷の弟子)の会話が印象的です。 p283〜284 ・張起が「字というのは、そりゃ驚くほどいっぱいあるもんでございますなあ。私は、字は二つしか知り ませんが」と言う。 ・司馬遷が「自分の名だな、張起?」と問うと、張起は「そうです。それでも、この歳まで生きていられ ました」 ここで、孫信が笑う。 ・張起が「私は、おかしなことをいったかな、孫信さん?」と投げかけると、孫信は「いえ、張起殿のお 歳まできちんと生きられれば、それだけでご立派だと私は思います」私は、張起殿より字の数は知って いますが、それだけのことなのです。字を遣って、先生のように素晴らしいことが書けるわけでもない のです」と話す。 ・それを受けて、司馬遷が「書を読むということもそうだ。孫信、知識は増えるであろうが、その知識の 遣い方を、書は教えてくれるわけではない」と孫信に向けると、孫信は「心します。先生」と頭を下げ る。 ・司馬遷は「張起は、書は食えない、と思っているだろう。つまり、牛の肉よりも下のものなのだ。それ はそれで、張起にとっては正しいことなのだと思う」と言うと、 ・張起は「そんな、旦那様が大事にされている書が、牛肉よりも下だなどと。いいかね、孫信さん。牛肉 は食べればなくなってしまうが、書は読んでもなくならない。そこのところが、大違いだと、私は思う よ」 ・司馬遷が「いいことを言う。張起」- - - - - - 司馬遷が笑うと、張起も孫信も笑った。 - - - - - - 漢語や漢字、ましてはかな文字にしても、字というものがこんなに多岐にわたり私たち(日本国独特かな )の生活の奥底まで入り込んで来ていることを、考えさせられる今日です。しかも、この「史記」を読んで 痛感させられたことですが、漢字(漢語)の文字数の多いこと、この歳になっても、初めてみる字や、何回 出て来ても読めない字が多いこと。本物の小説家とはただただ凄いとしか言いようがありません。これらを 電子で調べると、その殆どを検索できること。「当用漢字」とか「常用漢字」とかは、漢字の中のほんの一 握りの“かんじ”のようです。何故学校では教えないのだろうか。法律文や文章、雑誌では原文のまま表現 し、ルビを付ければいいものを。 昔購入した「重要紙面で見る朝日新聞90年(1879―1969)/朝日新聞社編集発行」に見る明治、大正時 代の新聞記事には、殆どの漢字にルビが打ってあります。多分、漢字を知らない多くの国民に速やかに情報 を伝えようとの配慮があったのではないかと思います。 私が、熊本県水俣市にある工場に転勤した折、図書館で目にした本(「氷川清話」/徳富猪一郎著/出版社、 出版年月不明)のコピーを持っていますが、全ての数字以外の漢字にはルビが打ってあります。 孫娘との社会の勉強の傍ら、改めて感心したことがあります。漢語(字)が日本に伝わったのは卑弥呼の 時代か大和朝廷の時代だったのでしょう。「古事記」や「日本書紀」はその漢語で書かれたものでしょう。 9世紀末“かな文字”の発明とあります。この頃から日本語、日本独自の文字文化“かな文字”と“かん字” が融和して、「古今和歌集」が編纂され、日本独自の“詩(和歌)”が生まれたのだと思います。かな文字 とかん字を組み併せ、日本独特の四季の移り変わりを表現した様々な“もじ言葉”が生まれて日本文学が成 長していったんのだと思います。 《この段落の各行の文章や、年代には間違った表現があるでしょうが、日本語の計り知れない奥深さを言 いたかっただけです。それが、俳句や和歌(短歌)に繋がっていると思っただけです。間違いは、知見 の有る方、修正して下さい。》 それにつけても、俳句には難しい言葉、難しい漢字が多く使われています。私が持っている昔の「俳句歳 時記」の季語については違和感がありませんが、私が投句している俳句誌を見ても、やたら難しいというか、 読めない漢字が多く出てきます。多分2〜3句に数字は辞書を引くことも出来ない漢字が出てきます。(読 めないので、辞書が引けない) パソコンのIMEパットで字をなぞり、音・訓の読みを探し、漢和辞典の 手を借りる始末。「古池や蛙飛び込む水の音」とか「菜の花や月は東に日は西に」とか、孫娘(小学六年生 )の漢字知識レベルの俳句は、すんなりと入っていけますが、掬(すく)う、抄(すく)うとか噪(さわ) ぐ、騒(さわ)ぐ、等の使い分けで、そのニュアンスを区別する表現がなされているのでしょう。この辺り は、眞に「漢語の世界」ではないでしょうか。私が学んだ先生の作風とは異なって、人それぞれでしょうが、 あえて、難しい漢語がふさわしいと思っているのでしょう。私には意図が全く分かりませんがね〜。 余談ですが、五―七―五のそれぞれの言葉がどう結びつくのかが分からない、理解できない句もあります。 これは、俳句の神髄に対して私がまだまだ未熟であることは、すんなり認められるのですがね〜。残り少な い人生ですが、今後の勉強科目の一つになりそうです。 更に、先生から、「二、三人でもよいから時間に余裕があれば、句会を持ちなさい」というアドバイスを 受けているのを思い出しました。佐賀の地には伝(つて)はありませんが、なんとか探してみようと思いま す。一方、自分の作句信念を覆される恐れが怖くて、踏ん切りが付かない今日です。 |