俳句趣味<俳句手帳片手に散策考> page047f.html  

 ※ 六稿/コロナ禍で臨時休校孫の守り(2020.026.03 2020,08.23追記)

  令和元年(2019)十二月号より、約五十年振りに俳句誌「椎の実(宮崎県唯一の月間俳句誌)」に投句を再開
 して半年がたちました。一年もたたないうちに、もう思うような句・投稿できるような句が出来ないジレン
 マに落ち入っている始末です。そんな折には、仕方なく、神頼み的に例の「三年日誌」に書きつけた昔の句
 (若かりし頃の! ギラギラした時代の!)を読み辿ることもあります。
  それらの句は我ながら、直接的で言葉の羅列は免れませんが、ある意味では味があるなあ! ピンとくる
 なあ! こんな句を作っていたのか! そんな事を思っていたのか! と感慨に耽ることがある此頃です。
 今の行き詰まりは、何故なのでしょうか? 五十年もすれば、確かに耄碌は致し方がありませんか! 最近
 始めた図書館通いで、今まで殆ど気にしなかった先人・有名人の俳句本を覗いたり、関連の、私にして、作
 句論に目が惑わされているのでしょうか! もともと能力のなさに推敲が枯渇してきた行き止まりの状態な
 のでしょうか! 
  言うまでもなく俳句の生命は「季語」です。日本列島の四季の彩りです。それを直に感ずるのは“旅をす
 る”ことが最良の手段なのでしょうが、昨今は隠居同然の身、特に、七十歳を過ぎてからは、会社員時代の
 ように出張で出歩く機会もなく、旅行という旅行も殆どせず、年に一〜二回、郷里(宮崎県延岡市や日向市
 )に車乗り積めで帰る程度です。止まる所は、高速道路のサービスエリヤでのお土産買いか食事の時ぐらい、
 俳句の推敲とは殆ど縁のない「トンボ帰り」の旅程です。放浪の詩人という言葉がありますが、羨ましい次
 第です。
  従って作句のヒントは、悲しいかな起居生活の周りだけの変化を追う春夏秋冬に、視覚、知覚、聴覚、味
 覚、触覚、感覚等に触手を伸ばすのみです。大部分が寝床の中での作文、時々、目覚める眼( “見える”
 か“観える”か“診える”かは定かではありませんが)に映る景色に何とか語りかけ、草花の出立ちに手を
 添え、これらに私情を絡めて文字にする、記録にすることで「一行日誌」の茎にしようとの悪足掻です。そ
 の中で、何となく、何となく選んだ七句を、取りあえず月度ノルマの投函。あとは”ノンビリ行こうか”と、
 自分自身を慰め慰めの日々です。
  もう一つの頼りとするヒントは、相変わらず昭和時代出版の「俳句歳時記」ですが、最近は、市立図書館  を利用するようになり、関係本にも目が行くようになりました。有名な句に惑わされてはならぬという自惚  れと同居しながら、“ハイク”の基本を知ろう!(今更ながらですか!)務めて俳句関連の本(意識して、  初心者用の作句本を手にしています)を借りるようにしています!。藁をも掴みたい心境なのです。   「市立図書館」は自宅から歩いて十分足らずの所にあります。時々泊りがけで来る孫娘に読書を薦めてい  る関係で、一緒に利用するようになりました。選ぶ本棚は別々ですが、現在の子供たちの本棚は凄いですね。  沢山の本が溢れています。作家や本屋さんのは気の毒ですが、本は買う時代から借りる時代になったようで  す。更にITの進歩で、聞く時代になりそうな世情ですね。  借りる方法も随分効率的になっています。全ての本に「バーコード」が付いていて、バーコードをスキャ  ンして、個人のカードに「本名・返却日」が印刷されて渡されます。本を返却すれば、過去のデーターは消  去され、殆ど並ばずに事が済みます。また、借りたい本は本棚を捲るだけでなく、備え付けのパソコンに題  名や作者名を打ち込めば、容易に検索してくれます。窓口に並ばずに自動貸し出し装置も設置されているそ  うです。   私自身は、普通一度に十冊程度、その中に、必ず1冊のホームページ作成用の参考本(昨年より、独自の  勉強かたわら私自身のホームページと、趣味で始めているシニアテニスクラブ関係のホームページを開設中  です。その技術書としての参考書)、一、二冊の健康関連、時代小説(最近は、中国古代物)、それに俳句  関係の本を一〜二冊入れています。流石の市の図書館です。かなりの本が並んでいます。しかし、本を選ぶ  とは難しいものですね。まず、題名・作者が気に掛かるかが第一関門、手に取ってパラパラ中を捲って文字  ずらが意に沿うかどうかが第二関門、興味をそそる章立てになっているかが第!関門、直感的にこれはとい  う“もの”は中々見出せません。   新聞以外、本を読むことが長らく途絶えていましたが、俳句関係の本を探すついでに、小説ものにも手を  伸ばし始めました。最初に目についたのは檀一雄の「夕日と拳銃」でした。一気に読み通しました。昔、昔  テレビドラマで印象に残っている映像を重ねての読書です。改めて、感心したことは、この時代の作者は、  本当に語彙が豊富ですね。というか、私の知らない言葉や単語、漢字が沢山出てきます。大体の見当をつけ  て辞書を捲るもの楽しみの一つです。この歳になっての国語の勉強も乙なものです。   続いて、私の好きな分野である「歴史もの」に目が行きます。軽い気持ちで、落語ものにも触手が動きま  す。著者は記憶していませんが「火炎太鼓」、立川談志の「談志の落語集」、落語の本は一話、一話“落ち”  を読むまでは眠れません。“落ち”を読むとまた次の一話と続きます。   反面、俳句関係の本は何故か、2、3ページ捲るだけで「なるほどな!」「 うまい句だな!」で、中に  は「訳の分からない句だなあ!」「何でこんな句が記載の対象になるのかなあ!」で、たいがいは」終りで  す。直ぐ眠くなります。今では、借りて来ても殆ど中を開けることなく返却の繰り返しです。私の頭の中で  は「俳句は、先人の俳句論や俳句の作り方を読んで、作句を進めるのを拒否している」ように思えます。性  根が入っていな証拠ですね。   残念ながら「新型コロナウイルス感染」の予防対策で、館内長時間立ち入りも用心しなければならない今  日ですが、本に接する事、何となく書架をぐる〜つと回り、誰はばかることなく、薄くなった目を擦り付け、  たまたま“ハット(懐かしい題も含めて)”した本を目にしたり、直観的に手にする本に接することはは楽  しいことです。なにしろ、無料で借りられることが年金生活者には有難いことです。   第五稿で”冬の虹”を見てハットしたことを述べましたが、ハットすること”もの”に感動する事、永く  無かったか、見なかったかのような気がしています。周りは相変わらず色々な景観を投げかけ続けているの  にも拘わらず、観えなくなっているようです。視力のせいだけではないようです。興味の問題でしょう。も  っと反省の弁をするならば“気”の問題でしょう。孫娘に読書を薦めるつもりが、逆に孫娘に引き摺られて、  本に向かい合うようになったようです。“気”を入れられたようです。   昔、三輪先生から木浦君「俳句は感動だよ!」に類するようなことを聴いた記憶もあります。永らく忘れ  ていた”感動”それも、チョットした感動、何気ない感動が、身近な感動、少しずつ蘇ってくるようなこの  頃です。俳句の題材はよく花鳥諷詠と言いますが、花の咲き方、時期、花弁の枚数、花と実のなる場所、蝶  の飛び方、止まり方、これらも意識した観察次第ですね。感動なんて、意識すれば、観ればいくらでも有る  はずです。観えない、観ないだけでしょう。今でも私の俳句は、先生の“ことば”頼りなのです。   思うに、例え、感動し、観えたとしても、そんな感動を文字にして表現するところが難しいと実感してい  ます。それには日本語を知ることだ! 自然を知ることだ!と叫んでも、路端で色を成している草花、頭上  を覆いかぶさる木々、何という花か、何という木か、俳句の素材に活用して詠めない。名前が分らない。自  然界にこんなに数知れぬ草花や木々があったのか不思議です。これらは皆私が物心ついた時以前から悠然と  この地上に顔を出していたにも拘わらず、それらに今頃気付いたのです。生涯学習とは良く言ったものです。  昔の百科事典やインターネットを捲りながら、最近は電子辞書も交えて、捩じりハチマキの毎日です。まだ  まだ若い七十代、ぼちぼち行きますよ!!   ついに、コロナでクルナになりました。つまり図書館も閉鎖です。本を読むことに目覚めた腹の虫は収ま  りません。書斎(そんなものは在りませんが。自宅の本棚です。一度言ってみたかっただけです)をまさぐ  って見ました。佐賀に転居する前に、地区の公民館に段ボール箱3個分の文庫本を寄贈(多分推理小説や時  代物)し、更にこの八年間(佐賀に転居して)に3分の1の書籍を処分したつもりですが、この時期を凌ぐ  には事欠かない程度の本はあるようです。   まず、自宅の本棚からも「落語」を扱った本が数冊でてきました。変な趣味なのかも知れませんが、「落  語」につては、昔から興味を持っていました。「落語明治100年名演集」「新作落語四十年傑作集」「落  語讀本」「古典落語上、下」等です。私、昔”落語”に興味を持っていた証です。私、昔一企業の中の一部  署である各種学校で先生の真似事をしていました。授業(話、説明、講義等)の「間」の取り方、話の前座  情報の扱い(導入の仕方)の勉強程度の興味で、これ等の本を購入していたようです。これは、後々社員対  象の企業内教育(職責者対象の環境安全教育)の業務には大変役に立ちました。   更に、貴重な本が出てきました。「植物知識(牧野富太郎)」です。1991年第16版380円の薄っぺらい  本です。解説付きで、花と果実のモノクロの手書状の図が付いた本です。現代の天然色写真集を見るより、  観る側にとっては特徴が良く観察されるような構図です。大事な「俳句作句」のヒント本の二冊目に加えた  いと思います。   そうこうしているうちに、「どうやらコロナの炎も下火になり始めました」という報道が飛び交う最中(  いやいや相手は随分としぶとそうとは想定していましたが!)、同時に、第二波、第三波の恐れという不安  を駆り立てる文言が、あちこちに吹き出てきました。どうやらこのコロナの奴、長帳場になりそうです。「  コロナ禍」も季語のなるのでしょうか。しかも一年を通じての季語に、いや、そんなものは季語ではないで  しょうね。   最近の天気予報はほぼ予想が出来ようになったのに、コロナの終結予想は、皆目です。   気が付けば、九州地方「梅雨入り」が確認されたとか! 「何月何日梅雨にはいりました」ではなく、「  梅雨に入った模様」という表現、如何にも日本語らしい言い方です。断定せずに余韻を残す。見る人、聞く  人に感じを残す、この感じ、想像力を如何に掻き立てるかが「俳句」なのでしょう。私の持っている古い俳  句歳時記文庫本には「つゆ」のつく季語項目が21語、各語の参考例示にはそれぞれ5〜10個があり、「  つゆ」に関する類語だけでも200種以上あるようです。これぞ日本語、だから日本文学“俳句”なのでし  ょう。そろそろ、ぼちぼち。七十の手習いの再出発は!! 出発進行〜