多布施川藻様【2023.03.05上梓 2025.01.10更新<佐賀市多布施住人 木浦>】 「多布施川藻様」も三年目に入りました。昨年末、郷里「延岡」から、私が投句している「俳句誌 椎の実」誌友の訪問を受けました。後にも先にも、私が誌友なるものにお会いしたのは初めてです。この歳まで全くの一匹狼でした。お会いして、やはり“友は友”です。いいもんですね。二人目、三人目の誌友に巡り合う年になればなあ~! ・おりおりのうた日誌(再掲版/第八稿 2025.09.10掲載) 多布施川藻様月誌【令和七年版 2025.10.10更新】 この「多布施川藻様」を公開し始めて、種々の原稿・残骸を拾い集め、遡ること2018(令和元年)以降の約九十ケ月分、九十項目の小話が完成しました。目指せ百項目です。 昨年は、コロナ禍も収まり、久しぶりに県外に飛び出す機会を得ました。岡山倉敷まで「教え子の古稀同窓会」出席旅行(家内も伴って)、鳥取県へ「ネンリンピック参加」を出しに観光旅行?。これを皮切りに今年は、吟行旅行をしてみようかなと思う年頭の初夢です。 白内障の手術も終え、久し振りに視界鮮明 ~見える物が観えるようになった余生、じっくり診てみよう~かな |
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飛魚の眼が剥いておる甑島(2025.10) 線状降水帯各地で冠水、九州新幹線運転見合わせ!との報道が未明、早朝から流れる。それらの兆しは早期に予報されるようになったが、“よそ事”として眺めるだけか、“まさの坂”には無関心なのか、我関せずなのか、結果的にはいつもの惨事が繰り返される。高度に進歩した日本文化圏に於いて、死亡事故、行方不明者等の報道は後を絶たない。 思えば、本当に怖い体験(実は錯覚!)をしたことがある。もう五十年前になるか!、出張で甑島(鹿児島県薩摩川内市に属する離島)に宿泊した時の事。夕刻から降り始めた豪雨(今でいう、一時間に百㎜以上豪雨だったのか?)が夜通し音を立てて降りしきる。島全体が沈没してしまうのではないかという錯覚、恐怖、一晩中眠れなかった記憶、何時しか気が付くと青々とした海と空の狭間で目を擦って、きょとんしていたことを思い出す。 当時、多分、阿久根港からの連絡船に乗り込んで上甑島を目指した。当日は、天気晴朗で、漁師の生まれであるのに、海原を船の先導、後摘めを飛魚の群れが銀色を浴びて飛び交う光景にびっくり。多分、海は穏やかなうねりの様子だったので、台風の影響はみられない天候状態であったろう。その夕方の出来事である。 「線状降水帯」という言葉は、次々と発生する積乱雲が列をなし、線状に伸びた地域に大雨を降らせる現象のようで、先の体験が眞にこれの先駆けではなかったかと思う。当時は、「集中豪雨」という言葉で片付けられていたのだろう。気象メカニズムや天候予報の技術も未熟な時代の話である。 雨もすっかり止んだ朝、旅館から目的地(各種学校生の生徒募集のための、中学校訪問)に行くのにタクシーがなく、護岸工事の業者の乗用車に便乗させてもらった事。合間のちょっとした観光では「なまこ池(海浜に出来た池で、満潮と干潮で水位が逆転する不思議な池とか?)、鹿の子百合の群生地?を歩いた微かな記憶が蘇る。 もう一度足を運んでみたいなあ!しかし、ここも橋が架かり、都会並みのホテルが建ち、観光開発が進んでいて、当時の面影は辿れないだろう。変わらないのは、当時の面影を残しているものは、飛魚の飛翔だけだろうなあ! (注)写真は、水俣市沖の「恋路島」、後日約十年ほど水俣に住んでいた。
遥かなる過去を背負った白い雲(2025.09) | 八月と言えば私の誕生月である。その月の五日生れ。当時戦後のどさくさの時期、届け出日が本当の誕生日なのかどうかは、両親がいない今知る由もなく、昔、両親に質したこともない。戸籍上の数値を信ずるしかない。八月はこの後、六日の「広島原爆の日(8時15分)」、九日の「長崎原爆の日(11時02分?)」、十五日の「終戦記念日」と第二次世界大戦の後遺症が続く。 去る八月二六日、戸籍に記載する振り仮名の通知書がきた。出生届時の戸籍謄本には勿論、名前には振り仮名は付いていない。今回の通知書にはカタカナ名で「ヨシノリ」と書いてある。間違いないかの確認書である。何故、カタカナなのであろうか。私は仮名書きのときは「きうらよしのり」を使ってきた。“ぜんとく”とも呼べるので、家内の親族からは「ぜんさん」と呼ばれている。「ゼンサン」では様にならない。 成長して、昭和四六年(1971)三月に結婚、昭和四七年四月長男誕生、昭和四九年四月長女誕生と一男一女を設けた。平成十五年(2003)三月、長男の結婚式で東京に行った時、序に東京見物の一つに「東京タワー」に登った。そこで手に入れた、私の誕生日の来塔記念「朝日新聞」の一ページを今も持っている。 当時の世相は、五月二二日幣原(しではら?)内閣が辞職し、同日第一次吉田内閣が発足直後であった。昭和二一年八月五日の朝日新聞、第一面の記事は、その吉田内閣についての世論調査の結果。吉田内閣の支持率40%。政党支持率/進歩党10%、自由党(吉田氏の所属党)24%、社会党41%、共産党P%、共同民主党Q%、諸派R%、どの政党も指示せず15%とある。自由党と進歩党との連立内閣である。 平成七年八月二五日の読売新聞内閣支持率39%、自民党支持率23%、党勢支持率からして、八十年経った昨今と同様四苦八苦していた感が伺える。進歩していないなあ! それでも当時は、政治家も国民も、戦後復興に躍起になっていただろう。昨今の政治は何をしているのだろうか。 国とは国家とは何だろう。更に、政治とは何だろう。あれから八十年たとうとしている。何人の首相が動かしてきたのだろうか! 変わっていないなあ! 私、証言者の1人!
炎帝や寝ても醒めても傍らに(2025.08) | 今年も叉熱い(暑い/ではない)夏がやってきた。報道では、長期天気予報や、その対策の記事が賑わう。多分今年も“今日の猛暑日地点全国○○箇所、猛暑日▽▽日継続記録更新、□□市最高気温更新、熱中症で患者搬送**人との報道が飛び交うであろう。確かに、熱中症症状で死亡者数が毎年二百人以上と言うのは大変な数字である。 学校行事の運動会では、時期(十月から十一月へ)、時間(終日開催から午前中だけの時間短縮、叉は午後五、六時頃やナイター時間)、場所(グランドから体育館内へ)の見直しがなされているようだ。これは、競技中熱中症で倒れる子供が増えている結果だとしている。運動会や体育祭で子供が倒れて、約200件(2019~2023年度)もの日本スポーツセンターの「災害共済給付制度」を適用したとの話も聞く。 終戦直後の、栄養失調然として小学校に通った私達、体操の授業中に水を飲むなんて考えられなかった。後で直接水道の蛇口に口を付けて飲む光景、下着まがいの体操服一枚、無帽(運動会では鉢巻き姿)、しかし、熱射病(今の熱中症か!)で保健室に休む生徒はまれ。今の子供、弱いなあ!先生からして、完全武装の姿!生徒指導できるのかねえ! 私達の時代、小さい頃より、日頃の生活で体が暑さ、寒さ、きつさに慣れていたのだろう。運動会前の一ケ月程度、無帽で裸足、準備運動のラジオ体操をじっくりこなし、隊列行進、かけっこや団技の練習で体をならし(順化期間)、本番では丸一日天日に晒されても、次に日一日(月曜日/振替休日)休めば、体力回復の時代であった。 日頃はクーラー入りの体育館で涼しく遊んでいて、体育祭当日だけ突然てんころ干しにさらされれば、体の異常を来すのは当たり前。何事も「順化」は必要だ。とは言っても、三十五度以上の日が続くことは無かったように思う。地球温暖化のせいなのだろう。 昭和二十、三十年代、道路は土塊で、至る所に木々が生い茂っていて、校庭の鉄棒の際には木々が繁り、栴檀の大木から見下ろされながらの体操であった。暑いことには変わりはなかったが、木々の葉っぱを横切って、土の表面をなぞってきた空気には、柔らかいものがあった。今の空気の感触/コンクリートジャングル/は熱いばかり。 注/てんころぼしー帽子もかぶらず日光に頭をさらす事/宮崎の方言
昭和とは瓶玉ラムネ矢のラベル(2025.07) | 先月(六月)は雨が多かった。特に七日~十六日迄の十日間は梅雨と言うよりはどじゃぶりに近い降りようであった。趣味の テニスが出来ずにもやもやとする日が続いたが、家内の病院への送り迎え(二日の胃カメラ、十日の大腸内視鏡検査、十三日の 高齢者運転技能講習等)で、一応手持無沙汰は癒された。 たまたまの小降りか、僅かの晴間の時に近くのスーパーに食料品を買い出しは、気晴らしに家内に付き合うことも厭はない気 分。昨今の物価高の世の中であり、百円前後のパン売り棚は人だかりが絶えない。お昼時、背広にネクタイの紳士風のおっさん がパンとペットボトルを抱えてセルフレジに並ぶ。事務職員風の女性にも同じ光景が見受けられる。 こちらは疾うに年金暮らし、大体お昼は、前出のパン食やインスタントラーメンで過ごすのが最近の生活。現役社員、お前ま でか!と笑い出したくもなる。ここで、昔むかしの資料を思い出した。私が、ある会社の各種学校(名称;◎◎工科学院)に勤 めていた時、卒業生が残し卒業文集「十年後の私」と題しての寄稿文である。 “学院卒業前の時は、がたがたしていて、インフレーションの世の中で、パン一個五十円牛乳200㏄一本五十円、そして 首相は三木さん、 ――――“ とある。昭和五一年(1976)三月、今から五十年前の記録。察するとパンは五十年で約二倍、牛乳は変わらず(本年四月、全国の スーパーの店頭売り1000㏄、は二百五十円程度らしい)、他の値上げブームからは無縁で、殆ど値段の上昇は感じられない。当 時の清涼飲料水、コーラや三矢サイダー、多分五十円前後であったろう。これが今百円前後、二、三倍の値段だが手ごろ。当時 愛飲のウイスキー「サントリーレッド(五百円)」は今九百円程度か? 歳を取り、飲む量の減少に換算すると、費用の負担は 依然として変わらない。 食料品等は安いに越したことはないが、昔製造現場で働いた者の目からしても、こんな値段で商売になるのかなあ! 会社泣 かせではないのかなあ! 生産者の方、随分頑張ってくれているなあ! を通り越して、よくも生き残っているなあ! と感謝 する次第!! それにつけても「令和の米騒動」、担当大臣により右往左往、適正価格とは何だ!。
製造はふる里の陽目刺し買ふ(2025.06) | 漁師生れのくせに魚の骨が苦手である。我が家では“きびなご”にして“揚げ物・煮つけ”にも頭を落としてからの料理である。煮つけでは、食べる時、箸で中骨を除く。変な表現だが、家内曰く「芸術的な食べ方」と言う。とは言え、子供の時は、朝昼晩、魚魚魚であった。しかも、雑魚ばかりが卓袱台に並ぶ。鯵、鯖、鯒な。昭和年代は、鯛や鱚や海老などは高級魚で、漁師の稼ぎ頭であり、漁師自身の口には入らなかった。 現在の魚は、沿岸から沖合、更に遠洋漁業で、漁師が大海の中で宝探し然として捕ってくる魚と、養殖する魚と、外国から輸入する魚で口を潤しているようだ。昔に比べると、店に並ぶ魚は豊富で、不思議にも庶民が口にするのは、鯛やハマチやエビ(養殖物)等の昔の高級品で、安く、品ぞろいである。養殖技術の進歩の賜物であろう。 されど反面、昨今の新聞情報によると「子供の魚離れが進んでいる」とある。年代別に1999年と2019年の魚介類摂取量変化がグラフ付きで解説されていた。何のことは無い、子供の摂取量の減少前に、大人の、特に三十歳代から五十歳代の摂取量がほぼ半減している様子、つまり母さんが、手軽な肉料理を選び、魚料理を面倒がる結果。骨抜き加工品が店頭に並ぶのは、魚屋さんがその販売対応をしている証である。 それはそうとしとして、日本の漁業産業、漁獲量の減少は危惧される。種々の理由があろうが、第一に、漁業資源の減少と、漁業従事者の減少(私が高校受験を志していた年、昭和三六年〈1961〉約七十万人いた漁業従事者は、令和四年〈2022〉には、約十二万人まで激減、更にその内六十五歳以上の高齢者は四割に迫る)である。それに輪をかけるのが子供以前に、お母さんよ!あなた自身が「魚離れ」だよ!。いらぬお世話かも知れないが **日本国の食料事情、米離れ、魚離れ、近い将来“国が成り立つのか”なあ~** 例に漏れず実家、私に代わり弟が漁師を継いで約六十年、昨年末高齢と後継ぎ無しのため「船仕舞い」したとの報。お神酒を送り、地元に残る弟と妹を労うだけが関の山。たまたま、近くの店に「いわし丸干門川(私の郷里、宮崎県日向市の隣町)産」と銘打った乾物が売られていた。つい、故郷の文字、香り、陽差し、思わず手に取ってみた。
グランドに老いの溜り場山笑ふ(2025.05) | 私が「フレイル」という言葉を耳にしたのは、四、五年前、多分令和に入ってからだと思う。語源を直訳すると「虚弱や老衰、脆弱」などの意味。当然、医学思想(老年医学)の先進国からの受け売りだろうが、既に日本の「日本老年医学会」が、平成二六年(2014)英語のFrailityを「フレイル」という日本語訳にすることを提唱したそうだ。 具体的な症状として、厚生労働省研究班の報告書では「加齢とともに心身の活力(運動機能や認知機能等)が低下し、複数の慢性疾患の併存などの影響もあり、生活機能が障害され、心身の脆弱性が出現した状態であるが、一方で適切な介入・支援により、生活機能の維持向上が可能な状態像」と記されている。(参照/健康長寿ネット) 今や世間では「フレイルの予防」として「フレイル学会」が設立され、随所で景品付きの「フレイルウオーク」が開催され、フレイルの日(二月一日らしい)まであるらしい。お決まりの「フレイル基準」も作られ、五つの基準のうちいくつかが該当すれば「フレイルだとか、フレイル前段階」だとかお決まりの自己診断が飛び回る。 私達夫婦、年齢からすると「フレイル」予備軍、いや真っ只中だが、月例の「かかり付け医」の健康診断・相談後、お決まりの薬を(私は痛風予防薬、家内は血圧及び膝痛緩衝薬)を受領した直後も、グランドに直行している。気が付くと、昼食後は、テレビに釘付け、叉は趣味に走ってしまい、ついつい処方を忘れてしまう。薬箱を眺めると、処方薬が余って溜ってしょうがない。二、三ケ月に一回は薬を断る始末。 今の所、自己責任で「心・技・体」を体調管理?している。「頭の体操」では趣味の俳句作りで机に向かい、「体の運動」はテニスでコートを走り回り、自動車運転更新(高齢者講習/認知症検査、実技講習)」も訳なく?合格。この歳で、朝・昼・晩年中、食事も旨く、酒も飲める。年金暮らしとはいえ、分相応の“かれい(華麗/加齢ではない!)”な生活、あと何年続くかは言うまい。そう言えば、所属しているシニアテニスクラブ、部員約三十人、年齢幅六十歳~八五歳、あいた!あいた!と言いながら、皆元気、元気。昔畑を駆け回る戦後派は、「学会」とは無縁、まして「フレイル」とも無縁。 |