さ さ や か な 物 語 り

   小川

 幼稚園に上がる前のことでした。
 家の西側を、細い川が流れておりました。雨が降れば、道にあふれそうになる小さな川でした。雨台風の日など、(かさ)を増した水が、道の上を流れることもあった、と覚えています。
 その小川は、両側に並んだ田んぼへの取水源となっておりました。季節になると、堰きとめされ、水嵩が増します。深くなった小川には、幾種類かの魚が、頻繁にやってきました。小鮒、ナマズ、メダカ、ドジョウなど。ザリガニの姿を見かけることもありました。
 堰きとめされて増えた水は、小さな水路に分岐し、田んぼの表面へと広がっていきます。稲作のための大事な川でした。
 その小川は、僕の恰好の遊び場でもありました。
 魚とり網、それを僕は『タブ』と呼んでおりました、それとバケツを準備して、水辺から川の中を覗きました。砂を詰めた袋を積んで(せき)を作ったそのすぐ上流は川底が深くなっています。その水の中に、メダカやら小さなフナとかハヤやらが泳ぎ回っていました。呼称は分かりませんが、川底を這って泳ぐ小さなサカナもいた気がします。
 網で水の中をすくっては、水面上へ持ち上げ、網の中を覗き込みました。そこには、しかし、サカナの姿は無かった気がします。
 一度網で掻いた水は、下泥が舞い上がって、濁ります。サカナがいるのかどうか分からなくなります。
 昔のことですから、細かなところは思い出せませんが、僕は濁った水の中へ入り、網を水中に(くぐ)らせて、魚とりに飽くことがなかったようでした。

小川で遊ぶメダカたち
文と絵 いずみ まなぶ

   溜め池

 僕の家は、雑木林と果樹園と畑、そして水田に囲まれておりました。家の北は富有柿、東が桃の果樹園でした。果樹園の外側が水田でした。水田は広いところで三反、(せま)()では一反もない面積で、そんな田んぼが七、八枚、連続しておりました。
 家を出て、東の桃畑を過ぎると、水田です。水田の北の端に堀がありました。溜め池でした。我が家だけの溜め池でした。
 その溜め池のことを、
「内の田んぼの東側に川が流れているが、内は水利権がない。西にも川が流れているけど、そこから水を田んぼに引く権利もない。開拓団として入植した者に、農業用の水利権は認められなかった。だから池を掘って水を溜めている」
と、父が説明してくれたのを覚えています。
 稲を栽培するのに絶対必要な貯水池だったのです。
 ある時、母がうわずった声で、
「牛が逃げた!」
と父に訴えていたことがあります。暑い夏の日の出来事でした。
 父も仰天したと思います。
 家の周りは林と果樹園と水田などの農地でした。逃げ出した牛が、視界を(さえぎ)やぶとか林の向こうに行ってしまえば、探すのに難渋なことは分かりきっておりました。
「お前は西を探せ! 俺は東を当たる!」 と叫んで、父は果樹園の方へ走り出しました。
 果樹園の先は水田です。水田の東側には小さな川が流れていました。川べりには笹藪がところどころ茂っておりました。
 川の向こうはよその田んぼです。牛が川を飛び越えることはなかったでしょう。
 陸続きの北か南のいずれかが逃走経路になります。南に逃げても、北に逃げても、よその田んぼを荒らすことになります。そして、笹藪の影に隠れてしまえば、お手上げでした。
 やがて母が戻ってきました。
 「お父さんは?」
と聞きました。
 「まだ。牛を探しに行ったきり・・・」
と答えました。しかし、本当にそう答えたのかどうかは分かりません。当時の僕は幼かったですから。幼稚園に行く前だったような気がします。
 やがて父は牛を連れて戻ってきました。シャツもズボンもずぶ濡れ状態で戻ってきました。心配する母に向かって、
ほりに入ってたよ。水にかって、気持ちよさそうだったから、俺も一緒に浸かって、牛の体を水でこすってやった」
と説明したのでした。
 牛を水浴びさせに連れて行ったんだ、堀に浸かったら、俺のシャツも濡れてしまったよ、と日常の出来事を淡々と話す言い方でした。「お前は西を探せ!」と叫んで、自分は東に駆けだした慌てぶりは、父の表情のどこにもありませんでした。
 暑い夏の日の出来事だったと思います。
 我が家が開拓農家としての初期の頃の一コマです。家の周りにはまだ開拓できる雑木林が残っていた時代のことです。そして、代掻きなどの農作業は、牛や馬などの家畜の労力に頼っていた時代でもありました。

文 いずみ まなぶ

   稲小積み

 僕が子ども時代の風景と、現在とでは、環境がだいぶん違っております。
 今は、広々した、視界に障壁が少ない、見晴らしの良いものです。子ども時代のそれは、田園が、森や林にあちこちで遮られ、その向こうには筑紫山地が見え、その上に空が広がるというものでした。
 舗装された道路はどこにもありません。砂利の敷かれたバス通りが最新のものではなかったでしょうか。目抜き通りに接続した脇道は土のままだったと覚えています。
 のんき、だったと言えば、暢気です。
 風景は暢気でしたが、そこに生きる人々は、それなりに多忙を極めておりました。
 秋の田んぼを思い出します。
 父と母が、稲をノコガマで刈り倒します。刈り倒された稲を、一束(ひとたば)分まとめ、腰に結(ゆ)わえた藁で括っていきます。次は、稲小積(いねこづ)みのための盛り土です。鍬で、稲を積み上げる場所を、一段高くします。高くした土の上に、藁を敷き、その上に、今年の稲束を積み上げていきます。穂先を中心に、十文字になるように、稲小積みを作っていきます。ひとつの稲小積みができると、次の稲小積みをつくる作業に進みます。
 いくつもの稲小積みが田んぼに現れます。
 田んぼに点在する稲小積みは、子どもにとって格好の遊び場となりました 。
 隠れんぼ、ちゃんばら、追いかけっこ、ボール遊びなどで時間をつぶした気がします。鬼さんに見つけられそうになると、稲小積みの周りを移動したり、他の稲小積みに逃げ隠れたり。竹の棒を刀にちゃんばらごっこをしたり。稲小積みから稲小積みへ駆け回って遊んだり。
 遊び終えると、首や胸、腹、足などが痒くなった記憶があります。痒いところを掻けばますます痒くなる、だから掻くな、と父や母に教えられたと思います。しかし、我慢しきれなくて、ついつい手で掻きむしったり、手の平でぺちゃペチャとたたいたり、とそんなことをしたのを覚えています。
 現在、近所の農家では、稲小積みを作りません。コンバインで刈り取ると同時に稲ごと胴の中に流し込み、脱穀して、籾はタンクへ、藁は後尾へ流します。後尾で藁は細断され、稲の切り株の上へ排出されます。長い藁のまま落として、後日結束機で回収する農家もあります。(了)

文 いずみ まなぶ

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